◎心は神信心の定規と共におかげも信心の定規。ただし、また売れたまた売れたのという心に不安が忍び寄るようなおかげは危ない。いつも神様が見通し聞き通しと感じられるようなおかげであって本当のこと。
%1親先生の朝の心中祈念
%2高橋さんの、神様は見通し聞き通し。
%3親先生の思いが分かっていない。


昭和四十三年二月二十一日 朝の御理解


X御理解第九十八節 「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」


 %1心は信心の定規、同時に、おかげも又、私共の信心の定規なのです。例えば、私が朝の御祈念を奉仕を致します。別に腕時計をはめて、御祈念をしておる訳でもないのです。と言うて、祈らせて頂いておるその事が、いつも同じじゃないんですよ。神様の方が長い時もありゃあ。霊神様が長い時もある。

 %1それでもやっぱり、時計は、私がここ一階へ下がってくる時には、六時十五分を指しておる。うちの家内が申します、いつも勝手の方で勝手をしながら、御理解を頂いておる訳ですけれども。「これだけには、もう感心する」という訳です。他の事には感心せんけど。このことだけには感心する。勿論、それは六時の時もございます、また、過ぎる時もございますけれども。

 %1その時には、私の心の中に、はゝあ、こういうご都合で今日は、六時だったんだなと。寒修行中は、六時が多かったですね。別に、今日は、素人さんが沢山多いから、少しゆっくり御理解をしたいから、六時に切り上げようと言ったようなことじゃないんですよ。それに、いわゆる心も信心の定規であると同時に、時々、私の心に引っかかることがあるんです。

 %1そういう時に、どうも、心が本当でないような、正常じゃないような感じが。但し、おかげの方はどうであろうかと。御祈念を終わってから、座らして頂く、時計を見ると六時十五分を指しておる。自分では、ちょっと間違っておるように思うけれども。おかげの方は間違いはなく、「きちっと下さってあるな」と言う風に感じる訳なんです。ですから、ここに二つのところが合間っていかなければ、いけないのです。

 %2心は信心の定規じゃによって。昨日、福岡から、高橋さんが毎日、日参があっております。朝のお参りのときでした。いろいろとお届けされました後に、最近先生、本当に、「神様は見どおしだ、神様は聞きどおしだ」という実感の中に、お商売の御用を頂いておりますとこう言う。御承知のように、お寿司屋さんでございますから。最近、職人さんが減って四人しかおりません。

 %2であるのに、かゝわりませず、その四人の職人がフルにお使い廻しを頂いておる。というて、のべつまくなしと言うのじゃなくて。まあ、それぞれに一服する時には一服さして頂いてから、もう実に、その仕事が順調。

 %2もう仕事だけのことではございません。神様は、私の方にあります寿司を盛り付けされる器まで、どういうものがあるということをまるっきり御承知のような日々でございます。先日も、五人前なら、五人前の寿司桶が全部出払ってしまいました。はあ、これまた五人前と言ってきたが、何人盛るだろうかと言うと、次に十人前の盛り皿がそーっと出る。これが今度、終わりますと、前の器が帰ってまいります。

 %2帰ってくると、又、五人前、本当に神様は見通しだ。三福という寿司屋に寿司桶がいくつある。五人前の分が、十人前の分が、いくらあるという事を、神様がまるきり見通しのようなおかげの中に、日々。

 %2しかも職人達が、なかに三人はここに熱心に参ってくるんですよ。顔を見合わせながら、本当に、「三福」という店は、神様のお店じゃなあ、神様のおかげを頂いとる店じゃなあと言いながらです。それを目顔で、いわば感じ合いながら、日々、「御用頂いとります」とこう言う。これは高橋さんの信心が、そして、もの言うてくる訳でございますけれども。

 %2けれども、来月になりますと、今度は、どうでも野球が始まります。野球場へお寿司を沢山出さにゃいけません。ですから、どうでも、やはり職人さんが、今の四人ぐらいのことでは間に合わない。だから、これほど神様が見どおし、聞きどおしなのであるから。来月は、こんなに沢山な仕事があるから、職人がいると言う事も御承知の上なのである。

 %Vだから、そこに不安があってはならない、心配があっても必要ない。ところが心配がある、不安がある。そこに、今後の高橋さんの信心がかけられておらなければならないのでございますけれども。 ひとつどうでも、皆さんがおかげを受けましてですね。心は信心の定規と、自分の心の上に定規を押し当てて見ながら。形の上にも、神様が見どおしじゃなあ、聞きどおしじゃなあというて下さるようなおかげが、きっとこう合間っていくようなおかげを頂かなければならん。

 %Vしてみると、「おかげも信心の定規じゃ」と言う事になるのでございます。そこでです、高橋さんが、昨日、言われるように、神様が見どおしじゃ、神様が聞きどおしじゃ。三福の寿司という、三福寿司のお店の中に、神様が隅々まで采配を振って下さっておる。まあ、御守護を下さっておると言う事をです。実感させて頂いてのおかげ。そこから、信心に、「いよいよ油断ができんなあ」と言うものが、高橋さんの心の中に頂けるであろうと、こう思うのですけれどもね。

 ただ、おかげが、さあ売れた売れた、また売れたと言うようなおかげの中に。さて、商売で言うならば、「商売が大繁盛しておる」と言うこと。それが、私の信心がでけておるから、こういう間違いのないおかげを受けているんだというのとは。ちょっと違う。そういうおかげの中にはですね。ふっと自分の心の中に、それこそ秋風が忍び込んでくるようなものがあるんです。

 はあ、もう、どんどん繁盛する。こんなに仕事がある。こげん儲かってよかじゃろか。おかげ頂いて、おかげ頂いて。広大なおかげ頂きましてと言うておるけれども。その心のどこかに、それこそ忍び寄ってくるものがある。寂しい、何時このおかげが止まるじゃろうか。何時この裏が来るじゃろうか。そういうおかげのある事も、知らなければなりません。そういうおかげはです。これは本当のこつじゃない。

 小倉の初代桂先生が、自分の信心の築かれた徳というものがです。 「信心の徳が後に残ると思うな。桂松平一代の信心の徳は、もう、おかげ召(め)が吸い取ってしもうた」とおっしゃったことがある。 「おかげ召が吸い取った」とおっしゃる。先生自身が自分の関係、または、自分のお広前に、それこそ大変な御比礼が輝いた。けれども、そのおかげはそれを知っておられた。このおかげはほんなおかげじゃないぞと言うことを。

 それは、自分の信心の徳を、それこそすさぶってしまうような、おかげを皆が頂いておるのだ。だから徳は残ってないぞ。もう、おかげめが吸い取ってしもうたぞ。桂先生の心のどこかに、秋風が忍び込んでくるようなものを、おそらくは感じられたであろうとこう思う。

 ここの辺のところをです。例えば、なるほど私は、今日は、心は信心の定規だと、同時におかげも又、自分の信心の定規だと言う事を申しました。けれども、そのおかげの中にです。高橋さんが現在受けておられるようなおかげとです。神様が見どおしじあ、聞きどおしじゃなあと言うものを感ずる事の出来ないおかげ。そういうおかげは、「私は危ない」と思う。

 「神様が見どおしじゃなあ、聞きどおしじゃなあ」と言うところにはです。もう神様が身動きも出来ない程にです。神様がひしひしと、自分の心の中にある時なのですから。油断は出来んぞ、おかげを落とすようなことがあっちゃあならん。いよいよ信心を、慎みを持った信心をさしてもらわなければならんという状態の時にはです。間違いがない。

 例えば、高橋さんが、初めから、そういう神様が見どおしじゃなあと言ったようなおかげを頂いておられた訳じゃあないのです。今頃、どうも商売が思わしくありません。どうぞ、お願い申しますという時代の信心から。又は、ある意味合いに於て、通るところを通らして頂く、様々な信心修行の中から。段々、自分の心の中に、なる程、自分の心が、信心の定規であるものを感じられる事が出来られるようになられてから。

 なられたからと言うて、直ぐおかげが、それに伴うと言う訳ではないけれども。段々それが、本当のものになって、本当の自分の信心の血肉になってきた。

 例えば、商売のない時であっても、こういう問題の中にあっても、その中に御神意を悟り、その中に神様の有難さというものを、分からして頂くような信心が、積み上げられて、そして、今日の三福があり、今日の高橋さんの信心があるのである。ですから、これは信心の定規であり、おかげも信心の定規であるということ同時にです。 そこにまだ、不安がある。

 来月は、野球場に出さなければならないお寿司が沢山ですから、現在の、四人ぐらいの職人で出来きるはずがない。今日までは、おかげ頂いておるけど、来月はどうであろうか。不安がもしあるとするならば、そこんところをです。私はもっと間違いのない、働きの頂けることの確信の出来る、信心修行が望まれる訳なんです。

 昨夜、菊栄会でありましたが、皆、こちらの人は集まりましたけれども、福岡組はまいりません。もう御祈念が済んで、私、しばらくここで待っておりましたけれどもまいりません。〈こっちには、時間がかかる〉じゃろうけれども。「どうしてじゃろうか」と思いよりましたら、あちらは、大変な雪だそうですね。今日は、高橋さんのお届けの中にも、「今日は、お店を休ませてもらう」と言うほどに雪がひどい。出前を言うてきても、出前を持っていけんほどに雪がひどい。もちろん、お客さまも、この雪の中にみえることも出来ないほどに雪がひどい。

 だから、「明日は、お休みさせて頂きます」と言うように、まあ、そういう風に雪がひどいもんですから、「おそくなった」と言うことだったんですね。そういうことでございましたから、昨夜の、これは、菊栄会の人達に対する御理解と思うような御理解も、だから、頂くことが出来なかったんです。

 例えば、合楽の御信者の中で親先生を中心にして、「親先生を思うておる」と言う意味合いに於ては、第一人者の人達の集いだと、こう思うですね。けれどもですね、その親先生が、その人達の心の中に生きてござるという事になってくると。これはまだまだと言う感じが致します。

 昨日、丁度、御祈念前に竹内先生達が、親子、孫、一家中でお参りになられましたけれども。おばあちゃんのお届けの中に、Z『もう、それこそ、もう、それこそ、もう、立派なというか、大きなというか、大きな虎が、こうして手を前にして座っておる。両端に子虎がですね、かわいらしい子虎が両端に座っておる』と言う、お夢を頂かれた。虎と言うのは、親先生のことを「寅年、寅年」と神様がおっしゃった時代があるので、親先生のことであろう。

 そういうお夢を頂いた次に、たいへん恐い夢を頂いた。『もう、命にかかわるようなたいへんな中に、お夢の中にですね。もうそれこそ、心の底から「親先生!」とこうおすがりさせて頂いた。そこからです、道が開けて、助かった』と言うところで目が覚めた。

 「先生、どういうような事でございましょうか」とお伺いになる。いつも、その大きな大虎、小虎がですね、竹内なら、竹内一家の上にお守りを下さっておる。いざ、いよいよと言う時には、「親先生!」が出る。「そりゃ、おばあちゃん、あんたの心の中に、親先生が生きてござるからですよ」と私が申しました。あなたの心の中に親先生が生きてござる。

 それをすぐ後ろで、末永さんが聞いておったんですね。そして、末永さんがここへ出て来てから、すぐお届けをするんです、親先生、今日、竹内のおばあちゃんにでておりました「御理解」を頂いて、私がおかげ頂きました。親先生が好きになりたい。親先生の心に添いたい。もう一生懸命、このことばっかり思っておるのにかかわりませず、いつもちぐはぐである。いつも親先生の痒いところに手が届くようだと思いながら、親先生の痒くないところども、掻いておるような自分であるのが。

 そういう思いに於ては、誰にも負けない思いを持っておるんですけれども。親先生が自分の心の中に生きておらないことが分かった。 正しく、菊栄会の連中はそうである。親先生を思う事に於ては、誰にも負けないものを、お互い持っていると思うのですけれども。親先生が、自分の心の中に生きてござるということではない。

 いよいよの時に、「親先生」の、ここんところは、どうなさるだろう。こういう時には、「親先生」は、どういう信心をなさるだろうと。その信心に、親先生の思いに心が通うてきていない。もうそこは、自分達のある程度の信心を持って自由にやっておる。

 甘木の平田さんあたりが、「親先生」と言うと、もう涙がこぼれるごたる風ですね。いわゆる、「安武松太郎」と言う先生がです、平田繁吉という人の心の中に、いつも生きてござる。親先生なら、こう言われる。親先生なら、こうされる。お前達のようなこつでどうするかと言うて。あゝいう、激しい言葉にもなってくるのです。そういう意味のものが全然ない。

 %3昨夜、菊栄会が終わりましてから、もう、あんまり遅くなりますから、私、休みました。休んでおるところへ、皆がやって参りましたから。今日の会合の中に、企画の勇さんが参加されましてね。三月十日の隅田隆太郎先生の講演会の事についての話し合いを、企画の方で、どう取り上げるかという事の相談をされたんです。「その話しがどうなったのか」と、私、聞きましたら、「いつもの様に信者さん方に葉書を持って、通知をする事に決定致しました」とこう言う。

 %3「そんなら、大祭並みたいねえ」と、私言いました。合楽が今度受け持っている人数が、三百名、会長である正義さんに、「そげなこつじゃ、つまらんばい」と、私が申しました。葉書出す事に決めました、みんな。そげなこつじゃ駄目。「親先生」が心の中に生きてござらんから、「親先生」の思いがひとつも分からん。

 %3葉書どん出す位のことなら、近くの者でよい。わざわざ企画の方達で取り上げんでも、誰でん出来るこつじゃないか。そげなこつじゃなか。その事を通して、あなた方の信心がどう動くかと言う事なんだ。

 %3久富建設の、例えば、従業員が、その日、一日休ませて頂いて。これは公開講演であるから、信心のない者にでも聞かせたい話。信心のある者はなおさら聞きたい話。丁度、日曜にも当るから。例えば、ここに十人、菊栄会のもんが集まっとるから、十人が十人づつ連れて来てごらん。家族だけでも五人はおる。従業員を五人連れて来てごらん、十人おりゃそれだけでも、百人集まるよと私。

 %3むつ屋呉服店が、その日、一日休ませてもろうて。今日は、全店を挙げて、「講演を聞きに行こう」という事になったら、十人、十五人なら、直ぐ出来るじゃないか。だから、信者に呼びかける。こう言う企画を立てました。あの会にもこの会にも、それが、染み透っていかないはずがない。一家を挙げれば、五人、自分の付き合いやら、知った人達にもと言うて案内が来ておりますから。

 %3それを、例えば、配ればです。一人で五人、十人は、お導きが出来れる働きと言うものができる。同時に、数揃えだけじゃない。その数の者全部がです、「何かを頂いて来なければならん」と言う意気込みのもとに、私は講演会のお話を頂いたら、皆おかげ頂く事じゃあないか。

 %3ただ葉書を出す事に決めました。それ位の事なら、あんたんどんに頼まんでもいいじゃないか。私は、「そう」申しました。それがです、心に生きてござらんからそんなことになるのです。大祭の案内でもそうなんだ。只、案内さえ出しゃあ、「ええ」と言ったような事ではです。もうそれは、生きたものは何にもない。そん時に、そん時に、何の為の企画か。

 %3新しい、いわば、信心から生まれてくる次のアイデアがです。作られていってこそ、企画の者の信心頂いとる者の、いわば、「企画する値打ちがあるのだ」と言う風に、私は、申しましたんですけれどもね。心の中に親先生が生きてござらん。親先生が心の中に、「生きてござる」と言うことは、「生神金光大神」が生きてござること。そこに、形がのうなったら、金光大神を唱えるところに行ってやると、「こう」おっしゃる。

 %3いわゆる、私は、生き生きとした親先生が、自分達の心の中にあって、「親先生!」とおすがりするところに、生神金光大神の働きがそこにあるのだ。まあ、これは、昨夜の御理解の一部でございますけれどもです。そういうような、例えば、生きた信心がです。私共の心の上に、心は信心の定規じゃと言うことに、私は、あてはめて、いけないものだろうか。

 そういう信心から、高橋さんが受けておられるような、形のおかげが、神様が見どおしじゃなあ、聞きどおしじゃなあと言うような、おかげがそこに表れてくるのだ。

 そこには、この信心さえ続けておけば、来月も「心配はない」と言う、確信が生まれてくる信心が約束されるのだ。おかげも約束されるのだ。そういうおかげを、私は頂いていきたい。心は信心の定規じゃによってという事は、おかげは信心の定規でも又、あるということ。けれども、そのおかげがです。その徳をすさぶるような、おかげである場合もあるから、そこんところを心していかなければならん。

 自分の心の中に、神様が見どおし聞きどおし。そういう、言うならば、神の中を分けて通りおるような実感があってのおかげであるならば、間違いがない。けれども、これは、こげんおかげ頂きよるが、いつ又、ストッとおかげ落とすような事があるじゃろうか、あるかも分からん。

 こげんおかげ頂いてよかじゃろか、おかげであるならば。信心をその中味として、もっともっと、本気で修行さしてもらわなければならん。心にいつか秋風が忍び込んでくる。これでは、確かに、おかげめが徳を吸い取ってしまう事にまで、なりかねないのでございます。どうぞ。